昭和42年03月26日 特別奉修委員



 どんなにこれが、実意丁寧神信心だという事が分かっておっても。いかに本当なことであっても、それを行じなかったら、何にもならん。そこで、銘々の信心の度合い、または、程度において、これが実意丁寧神信心だと思うことを、本気に行じてみることだと思う。本気で行じていくうちにです。自分で、ああこれはまだ違っておる。これはもっと、本当があるという事を、少しずつでも、
 そこんところを本当なものにして行くという事が、私は実意丁寧だと思うのです。これが実意丁寧だといかに素晴らしい、なるほどそれが実意丁寧神信心でありましても。それを知ったり言うたりしておるだけではつまらん。ですから銘々が自分自身がこれが実意だこれが丁寧だと、これが実意丁寧神信心だと自分で思うことをです、私は行じなかったら値打ちはないと思う。
 そこから一歩一歩本当なものへ私は近付いていけれると思うんです。只今久留米の石橋さんがここでお届けをされる前に、強力な祈りということを頂くんです。そしたらご自分の女学校時代のお友達が、カリエスで大変難儀をしておられると。その事をお取次を頂かれて願われた訳なんですけれども。本当に自分を中心にしたところからではなくて、少しでも自分の周囲にそうした祈りが向けられるという事は有難い。
 だからそれがいよいよ自分の事として、自分の祈りとして、強力な祈りというものが捧げられることになる。それがおかげを頂くことでもございましょうが。それが自分自身に、私は照り変えってくることだとこう思うんです。美登里会の方違がこうして、日曜たんびに特別の祈りの奉仕をなさる。御祈念をなさるんですがそれがこちらへ移転するまでというふうにしてあったんですか。
 今日の今日で終わりということを、先ほど三橋先生からお届けがあっておりましたが。本当に永い間皆さんご苦労様でございました。けれどもそれが本当に特別の御祈念を捧げさせて頂いた事が、はたして自分のほうへ照り返って来ておるかどうかということを、一つ反省してみなければならないのです。もしそれが自分達の為に、いくらか照り返しが来ておるとするならば、、神様があなた方の祈りを聞いて下さったんだと。
 けれども特別奉修をさして頂いとるけれども、自分へ照り返りがないとするならば、それはたいした効果はなかったものだと思わなければならんのです。特別の強力な祈りがいよいよ、これからの椛目に必要な時なんです。なるほど移転は済みました。御造営も大体、おおあらかた形の上に於いては済みました。けれども実際の上においてはようやく半ばが済んだだけなのです。
 これから半ばの事は誰やら彼やらという訳に参りません。やはり椛目で中心になる方違がです、後の半分の御造営成就を本当の意味において、いわば3年なら3年の計画をもって建てられることでございましょうが。それが成就するまでは、本当の成就という事にはならんのでございます。ですからもう本当に一人でも本当の祈り、力のある祈り本当に神様に通うような、神様を動かすような祈りそういう祈りが一人でも半人でも、今の椛目には必要な時なんですから。
 どうぞ特別奉修委員のこうして、一斉での御祈念は出来んに致しましても一人一人の祈りは、皆さん方だけの事ではございませんけれども。いよいよ強力な祈りを、神様に打ち向けて頂きたいと思うです。御用をお手伝いという人がありますが、お手伝い何と言う様な言葉では、お道では通用しないと言われておりますけれども。まあ言うならお手伝いでもいいと思うです。私を中心にしたところの一つの祈りにです。私が百の祈りが出来れば皆さんが、一つの祈りでもいいです。
 百人おればやっぱり今度は百の祈りになる訳ですから。ですからそこに二百の祈りを持って、神様へ向かう事になるのですから。どうぞ一つ造営真実の意味での成就まで、皆さんの強力な祈りが石橋さんに申しましたように、自分のために一回の御祈念をなさるならば、その方のためにもう一回一つ強力な御祈念を、祈りを捧げて下さいと申しましたんですけれど、皆さんの上に於いても、同じ様な事が言えると思うのです。永い間御苦労さまでございました。
   有難うございました。